2016年8月2日火曜日


「なかゆびムーヴメントⅠ ーーテロリストという<人間>は何を考えているのか」
劇団なかゆび 主宰 神田真直
 相模原市の障害者施設で19人が殺害された事件。この事件を知ったとき、私は衝撃を受けました。この事件が今回の作品「45分間」と密接なつながりがあるということです。この作品で登場する二人のテロリストは、老人ホームを襲撃します。物語が始まるのは、彼らが襲撃後、逃走し、潜伏するところからです。
 なぜ、彼らは老人ホームを襲撃したのか。相模原市の事件の犯人の動機とほぼ一致しているといってよいでしょう。私は彼の言い分に反論することができません。脚本を書いている時も、このテロリストの言い分を論駁することができるだろうかということを繰り返し問い続けました。
 私は同志社大学の政策学部生らしく、この事件が怒らないようにするための「政策提言」を学んでみたことを活かして色々考えるということもできます。しかし私のうちにある「ひっかかり」の在処がどうしても気になります。それを訴えるのが今回の作品の意義でもあります。この作品は、仮説です。残虐な行為を冷静に正当化する存在はいつか必ず現れる。そう考えていたところに、この事件です。
 まず、絶対に忘れてはならないのはこの事件の実行犯は我々と同じ<人間>であるということです。ですので、これは「非人道的」ではありません。人の道とは、人が歩く道すべてです。「非人道的」人がいるとするならば、別の存在が絶対的超越的神のポジションから「それは非人道的である」と価値判断を下しているという構造が何処かにあるはずです。だから、私は「非人道的だからこの行為はいけないんだ」という主張を禁じました。
 「非人道的」という言葉を使いたくないのには、先日のG7の「広島宣言」における文言で広島と長崎が「甚大な壊滅と非人間的な苦難という結末」を経験したという指摘への違和感があります。
 原爆を作ったのは人間です。
 原爆投下を決定したのも人間。
 原爆に苦しめられたのも人間。
 反省しているのも、人間。
 原爆投下を正当化するアメリカ人たちも人間。
 原爆は、すべて人間による所業であり、「非人間的」というのは間違っています。悲劇を繰り返したくないのならば「すべて我々人間の所業である」という事実を受け入れる必要があります。
 すると、受け入れるとはどういうことかという問いが立ち現れてきます。私がゼミに所属している柿本先生の言葉が同じ方向で問いを立てています。

 出来事は起こってしまい、そして今もある。これからもずっと。だから、出来事は剛体でもあり、かつ流体でもある。そうした出来事の中にあるしかない私の全身に偏在する「私がそう欲した」。世界の斜面の、そして「仕方がなかった」という心術の斜面の重力によって浸透され、蚕食を逃れることができない全身、「私がそう欲した」という意志の声が反響している。私の無意識はどこかの深層ではなく、私の皮膚の表面に散らばっているのだ(柿本昭人、2005、p.10)。
 出来事そのものが反論しないことをいいことに、そうした怯懦な者の中からは「その出来事は、そもそもなかったのだ」とまで言い出すものが出てくる。微視的であれ巨視的であれ、つまるところ出来事を粗雑な因果関係の平面でのみ見積もろうとする「歴史の算術家」の眼の前で、出来事の輪郭は必然性の網の目の中へと容喙し、そこから立てられるべきであったはずの思考の課題もろとも押し流されるいくだろう。そこでは、偶然に選ぶことができたかもしれない(できることになったであろう)別の選択肢が、そもそも「なかったこと」や「終わってしまった」こととして、出来事の抹消と同時に流し去られてしまう(Ibid p.12)。

 この先もずっと、私は欲するだろう。「始まり」はその後からしかおもむろに立ち現れてこない(Ibid p.13)。

 先生の「私がそう欲したのだ」を私は「すべてのテロの実行犯も、相模原の事件の犯人も、私も人間であり、そう欲する可能性を帯びている」と自分なりに捉え直しています。そして私は演劇でそれを訴えます。
 「テロとの戦い」という標語は、テロリストが人間であることを忘れさせてくれます。テロリストは<外側>にいる敵のように感じられるのです。しかし、テロリストは間違いなく人間です。我々と同様に食事をし、同様に笑い、同様に恐れ、同様に求めます。テロリストは内なる敵なのです。今、自分が、日本が幸いにしてテロから「遠い」からこそ、挑むべき課題であると強く念じて作品づくりに取り組んでいます。
 拙文ですが、「45分間」から引用させていただきます。
第二場
滞留
「俺たちが戦うべき敵は、あの老人たちか」
「あの老人たちは、敵ではない。排除すべきモノだ。ただ、生きているだけでは、荷物になるだけだ。旅をする時は、荷物を少なくまとめなければならない。これは処世術だ。因果関係も相関関係もない。当然のことだろう。だが、物怖じする者、愛着などと謳って偽善を決め込む者が後を絶たない。我々に必要なのは、決断することだけだ。そして、踏み出せぬ者の代わりに、決断を執行しているにすぎない」
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第二場
テロリストの理論
「現代の世界は秩序化された無秩序。資本主義における自由競争の論者たちは、あたかも「万人の万人に対する闘争状態を主張」しているかに見えるが、それは僻事であり実際は「貧困の分別に対する硬直状態を補強」しようと奔走しているである。彼らの奔走は、あらゆる者を逃走させる。逃走をもたらす排除による統合はやがて人類の自滅として帰結することになろう。神が憂いておられるのは、まさにこのことである」
「我々は世界に幸福の均衡を真にもたらさねばならない。というのも、当然、この権利は、それがあまりに当然であるので、もはや無視されている。この幸福の均衡をもたらす我々の活動は正義の実行であり、神がこれを我々に託されたのである」
「しかしながら、我々はテロリストとして「異端」あるいは「悪魔」の烙印を押されている。それは神を信じぬ愚者や真なる「悪魔」や「怪物」の卑劣な謀である。我々の戦いが抵抗ではなく「聖戦」と後に称されることは既に約束されており、誇らしく思うがいい。世界的な幸福を阻み、至福を肥やし、富を占有する者たちを打倒するのである」

 自ら書いたこの物言いを僕は肯定したくありません。この仮説が実証されないことを願うばかりです。

【文献】
柿本昭人『アウシュヴィッツの<回教徒>現代社会とナチズムの反復』春秋社、二〇〇五年

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