2016年8月2日火曜日

「なかゆびムーブメントⅣ ーー庭劇団ぺニノ、ダークマスター」
劇団なかゆび 主宰 神田真直

劇団のブログで掲載しようと思っていた文章があるのですが、タイミングを見失っていました。
折角の企画ですし、少しでもたくさん文章を上げようと思い、投稿させていただきます。
上演からかなり経っていますが、とても印象に残る舞台でした。
 
「ダークマスター」庭劇団ペニノ 脚色・演出 タニノクロウ

 まず私は劇の冒頭で『機械との競争』におけるロジックを想起した。そして、アフタートークに大阪大学の石黒教授が呼ばれていることにも合点がいった。観劇中、どのようにして、『機械との競争』におけるロジック、つまり労働力がやがて人間から機械に置き換えられ、置き換えられた人間は、機械に未だ置き換えられていない、もしくは置き換えられることのない経済的価値を持つ労働力を提供できなければ、行き場を失うというロジックが立ち現れてくるか、待ち続けた。しかし、いつまで経っても、その時は来ない。
 若者が、成長していく。マスターの手を借りずとも、自 力で料理ができるようになっていく。この劇の中間の部分を要約するなら、これだけで済む。しかし、単なるサクセスストーリーではなかった。
 若者は驚くべき早さで、朽ちていくのである。それは冒頭のマスターとの同化であり、同化の進行とともに、観客にマスターの声は提供されなくなる。
 『機械との競争』における人間が機械に追いやられ「行き場を失う」という思考様式を想起したことが偶然でなかったということに、ここでようやく気がついた。即ち、若者もマスターも追いやられた者の一人であったということである。追いやられた者が行き着く先にある「キッチン長嶋」。
 漂着者は、新たな漂流者が現れると、「自らの意志で」二階へ逃 亡する。ゴミ溜めのように犇めいている者たちは、本来隠されており、我々には見えることがない。劇のクライマックス、突如閉ざされていた、しかも観客はそれが開くと予想だにしなかったわけであるが、蓋が開く。ゴミ溜めから、不気味な漂流者たちが我々を眺めている。
 一つの場所で、一つの視点から眺めることしかできないという制約を持つ演劇であるが、この作品を秀逸にしているのは、追いやられた者がたどり着く「世界の果て」という一つの場所、一つの視点に立つことで演劇の制約を性格として受け入れ、さらに最終局面で「世界の縮図」を俯瞰している観客を巻き込むという展開である。次々と流れ着く漂流者たちを予感させながら、迎える終 幕も実に巧妙に仕組まれたものである。
 観客が構図に巻き込まれるということは、部分でありながらにして全体を見通すポジションに立つことは不可能であることを示唆している。舞台を見ていると、まるでその世界観を俯瞰しているかのような錯覚にしばしば陥る。この作品はそれを許さない。マスターがラストシーンで観客を指さすことで、我々も部分であり、決して全体を見通す神のポジションに立っているわけではないということに念を押しているようなのである。

 放浪、旅というメタファーは、追いやられた者たちがそれを敗北と認めないための装置である。我々は、ある時は消費者、またある時は労働者、またある時は国民、またある時は市民、またある時は・・・・・・ とそんな社会的、外在的な根拠が連続する無限判断に嫌気がさしてくる。何者でもありたくないという欲望のもと、その根拠を捨て文字通り「世捨て人」となれば、「私」についての問いの答えを探す旅に出る。放浪、旅への憧憬は、巨大な機械の一部分であるという感覚への拒絶である。
 『機械との競争』は機械に代替されない労働価値を持つことで、「機械との共存」を実現する必要を訴える。しかしながら、部品として捨てられる者が後を絶たない。誰もが機械に代替されない労働価値を手に入れることができるわけではないからである。

マスター「これはな、戦争や」

 キッチン長嶋の近隣に建設されるという中国資本による商業施設。本当に相 手取っているのは、中国であろうか。役立たずの部品として捨てられるのは、日本や中国という国籍によるのではない。資本主義の世界に住むすべての「人間」が機械との競争(戦争)にさらされているのである。

風俗嬢「これ、こないだのお客さんの耳からも出てきたで」

 不良品として投棄される前に、一度点検を受け、やはり不良品であることが証明される若者は、次の点検の担い手となり、自らの意志でゴミ溜めに飛び込んでいくのであろう。
 もう一つ興味深いのは、マスターが二階へ逃げ込むのが「自らの意志」によってであるという点である。「私は不良品でない」ことへの反証、つまり「あなたは不良品である」と認定されることを、ゴミ溜めを目前にしながら待つだけの日々が億劫になっていくのだろうか。「私は手遅れである」という自覚に対して見て見ぬフリをし続けるには、点検の担い手になる、マスターになるという変化が必要になるのだろうか。

 演出家がどこまで意図していたかは定かではない。しかしながら、分析や拡大解釈を経ても、浅薄さが立ち現れてこないのは、作品の強靱さの証左である。悔しながら、ここまでのディスクールはすべて、この作品の標語に集約されてしまう。

「新しく生まれるもの、そして失われていくもの 人は残酷さを楽しんで、生きている。」

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