2016年8月2日火曜日




「なかゆびムーヴメントⅡ ーー学生劇団を問う」
劇団なかゆび 主宰 神田真直
 
 京都学生演劇祭は今年で6回目を迎えます。今、僕は京都学生演劇祭の基本理念を作り上げるための地道な活動を進めています。かつての演劇祭を振り返る、レビューする企画です。京都学生演劇祭(以下、演劇祭とします)についてはしばしばその問題点が指摘されてきました。学生劇団の範囲です。学生の定義は、法律上明確です。しかし演劇という芸術の性格上、劇団を定義するのは困難です。すべてが学生のみで運営されているのが学生劇団とするのならば、劇団の運営とはどこまでを指すのか。演劇には上演までに様々な人が多角的に関わります。劇団ごとに固有のルールがあり、それらすべてを網羅した上で劇団の運営を定義するのは不可能でしょう。
 笑の内閣の高間響さんは各大学指定の公認団体のみという提案をしています。しかしここまでの運営状況から鑑みると、この提案では演劇祭に参加する団体が激減し、毎年の開催そのものがうまくいかない可能性があるでしょう。しかも、この提案では仮にすべてが学生によって運営されており、客観的に明らかに学生劇団であると納得できる劇団があっても、排除されてしまいます。この「排除による統合」がもたらす弊害は他にもあげられます。各大学指定の公認団体でも、関わる者に学生でない者が含まれる劇団は存在します。名だけ借りて出演することも困難ではないでしょう。この明瞭な提案は、その明瞭さ故に形式主義を誘い、運営の形骸化をもたらすのではないでしょうか。
 私は、学生演劇のあり方を4年間問い続けてきました。そしてようやく劇団なかゆびを通じて一つの解答を示すことができそうです。

「学生劇団は、演劇を学業の成果の発表の場とすることでその存在意義を示すことができる」

 学生とは、「学」びに「生」きる者のことです。学びに生きる者による劇団が学生演劇です。学生を法律ではなく、根本的なそのあり方を再考しているのです。


 これは演劇祭に参加することにおいてのみ考えたことではありません。以下のような私の学生演劇を取り巻く状況に対する印象から来る危機感があります。一般に大学生は、勉強しないものなのではないでしょうか。ましてや演劇につきまとうイメージは、「留年」「授業に出ない」などあまりよくない。また演劇を問わず文化系サークルへの入部者が、近年減少傾向にあるように感じます。文化に携わらなくても楽しいことはたくさんある時代になっています。「消費」によってもたらされる「楽しみ」よりも、演劇や音楽といった芸術的営みによってもたらされる「楽しみ」を享受することの方がずっと価値のあることであると私は強く信じています。ですが、芸術は当然、鍛錬を必要とします。この鍛錬が敬遠される理由なのでしょう。4年という短い期間ですが、ここまで演劇をやってきて確かなことはこの鍛錬を乗り越えたものにのみ、楽しさや価値が理解できますし、何より「豊か」です。
 現代の豊かさにおいて、「お金に代えられないものの価値を知る」ことほど重要なことはありません。このことを自分と同じ学生たちにに強く訴えたいのです。
 今回、審査員をお願いした市川明先生は講義で「ポケモンGOに演劇は勝てるし、勝たねばならない」と仰られていました。先生の宣言に私は強く賛同しました。そして私は演劇でこれに返したいと思います。

 劇団なかゆびでは、演劇に学問的視点を常に持ち込んできました。私なりの解答を広く知ってもらい、その是非を問うのが劇団なかゆびとして学生演劇祭に参加した理由の一つです。

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