2016年8月2日火曜日

「なかゆびムーヴメントⅢ ーー笑の内閣」

劇団なかゆび主宰 神田真直

 笑の内閣の高間響氏は老婆心を発揮し、京都学生演劇祭に対してしばしばコメントをしてくれる。ならばこちらも老婆心を発揮し、なぜ小生が笑の内閣を観に行かなくなったのかについて書こうと思う。念頭においていただきたいのは、笑の内閣は現在関西の演劇界において間違いなく重要な存在であり、小生にとっても目標とする劇団の一つであるということである。このことを踏まえた上で、行儀のよくない小生の駄文をお読みいただきたい。
 小生が観劇したのは、
第18次笑の内閣「ツレがウヨになりまして」(KAIKA)
第19次笑の内閣「福島第一原発舞台化計画ー黎明編ー 『超天晴!福島旅行』(アトリエ劇研)
第20次笑の内閣「名誉男性鈴子」(シアトリカル應典院)
であった。
 「ツレウヨ」観劇のきっかけは大したものではない。2回生を目前に控えた小生は自身の観劇経験の少なさを憂い、手当たり次第観劇していた時期であった。「ツレウヨ」は衝撃的だった。演劇に対する様々な悩みがバカらしく思えたのである。ちょっとした動きを気にしたり、せりふの細かい部分をあれやこれやと言うことよりももっと大切なことが何かわかったのである。より大きな視点で演劇を考える契機となった。その後、この劇団を追いかけてみようと第19次、第20次と立て続けに劇場に足を運んだ。しかし、「違和感」が自らの内にあることに気がついたとき、もうこの劇団を観に行く必要はないと思ったのである。
 違和感とは、劇団としての成長力のなさ、そして取り上げるテーマがあまりに個別具体的すぎるということである。ほとんどの人がすでに気がついているように笑の内閣に出演する役者の技術にはムラがある。「福島旅行」、「名誉男性鈴子」小生の出身劇団第三劇場のひとつ上の先輩である黒須和輝は、圧倒的な演技力であった。一方で覚える価値もないと思ったのと、大人の問題が生じそうなので具体的名前は挙げないが本当に稽古したのかと疑いたくなるような役者もいた。三回観ても、この演技力のムラが改善されることはなかった。
 脚本は非常に面白く、福島の脚本は購入するほど自らの劇作に参考にさせていただいたが、パターン化されている。パターン化されること自体は、悪いことではない。コンテンツを変えながらも、完全にパターン化された筋書きに吉本新喜劇という先例がある。だが、笑の内閣と吉本新喜劇の決定的な違いとは型が毎回壊され、脱構築され、常に新しい世界、その上演のみでしか観られない世界を提供する営みである。笑の内閣は全くないとまでは言えないが、この営みがあまりにも少ない。
 取り上げる話題があまりに個別具体的であることは、もはや笑の内閣の性格、特徴であるが、諸刃の剣とも言える。その話題に興味関心を抱かない者にいかに届けるかを熟慮することは、話題性とは無関係に、継続的に観に来る観客への劇団の仁義である。笑の内閣の上演は、おそらく話題に無関心な者に問題意識を植え付ける力は弱い。個別具体的な問題を取り上げることで、そこに関連する者たちが観劇に来るという横の軸、継続的に観劇へ訪れる者に、個別具体的な問題を訴えるという縦の軸が折り重なることが、笑の内閣という劇団の存在価値ではないか。現状は、縦の軸の強度が低すぎる。
 無論、笑の内閣が演劇界で一定の地位を占めていることは紛れもない事実である。だが、ここで論じたような弱点を持ちながらも、この劇団が一定の地位を占めることができてしまうこと、高く評価されてしまうことは、演劇界がいかに貧弱であるかということを示しているとも言える気がしてならない。

 小生の無礼な物言いを赦してほしい。これは小生からの笑の内閣からの激励である。京都学生演劇祭をいつも気にかけてくれる上に、学生演劇ドラフト会議など諸々の活動を実行に移していただける方たいらっしゃることは実に有り難いことである。このことを十分に意識した上での言葉であることをここでもう強調しておきたい。

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