2016年8月2日火曜日

「なかゆびムーヴメントⅤ ーー地点、ファッツアー」
劇団なかゆび 主宰 神田真直
僕も綱澤君も地点に影響を受けています。
今回の作品もこのことが色濃く出ていると思います。
というわけで、初めて観た地点がどう映ったか、拙文ながら掲載させていただきます。


2016年1月16日
 地点「ファッツアー」を観てきました。
 少なくとも、このレパートリーについては
   ①「音楽的演劇ではなく、演劇的音楽である」
と表する。すると、愚か者には
   ②「これは演劇ではない」
と言ったように聞こえるだろうか。無論、②のように表しても私の考えから離れることはない。けれども、誤解を生むだろう。言説のセンセーショナルさ故に。
 「何を以て『演劇』とするのか、演劇の定義は」という問いに有効性はない。定義付けをしても、必ずそこから漏れ出るものが即座に現れる。そんなことを議論しても、得られるものはせいぜい、「自分は真剣に演劇をやっている」ということアピールぐらいのものである。
 ブレヒト作の「ファッツアー」。予習していきたかったが、日本語訳の戯曲を手に入れることができず、前知識ほとんどなしの状態で劇場へと足を運んだ。入手先を親切な人から伺ったので、いずれテキストに触れてみたい。
 全体を通して、音楽が非常に強力に作用していた。生のバンド演奏とともに、構成し直されたテキストが次々と投げられてくる。時に、音と混ざり合って、テキストをテキストのまま聞き取ることができない。役者は、抑圧されているかのような動きをし続けている。何に抑圧されているというのか。戯曲を紐解き、解釈する。そして演出する。上演されたものを、解釈する。二重の解釈に経て、記述することで生まれる齟齬を恐れずに記述している。「ちょっと待って、あれは抑圧ではありませんよ」といった人のことばは今は受け入れられない。この抑圧については、「ファッツアー」そのものについての理解が必要であると判断したので、現段階でこれ以上進むことはできない。
 特徴である、途切れた言説。観客がその言説を聞きたいのかどうかは、問題ではない。不自然なしゃべり方に見えるだろうが、これこそ、ありのままの「声」なのである。抽象化ではない。極端な具象である。
 抽象的か、そうでないかといった分け方も、もはや問いの形式として、誤解を与えるかもしれない。だから「音楽的演劇ではなく、演劇的音楽である」と表したのである。奇妙なことだろうか。音楽の要素が強い演劇として観るよりも、演劇の要素が強い音楽として観るほうが、私は受け入れやすかった。それは、観劇中、「踊りたい」という衝動が私の中に生まれたからである。ことばは途切れていても、空気は全く途切れない。「間」にリズムが埋め込まれているからである。
 演奏する空間現代のメンバーたちは、演奏しない箇所でも、拍を取っている。"Art"の語源には秩序という意味も含まれているという。芸術には秩序が必要なのである。そして、本劇には「リズム」という秩序が与えられているからこそ、芸術として、認められるのである。
   「ヨーハン・ファッツアーのために大きな拍手を」 
   「エゴイスト・ヨーハン・ファッツアーの没落のためにもっと大きな拍手を」
  最初から拍手をしたくなった。共に感じたくなった。あまりにも、役者たちが感じているからである。踊りたくなった。役者たちが不自由そうだったからである。だが、それができない空気が客席にはあるから、せめて、リズムに乗ろうとした。座っているのには、勿体ない強靱な舞台である。これほどにまで、強靱な舞台をおとなしく座って観ていられるほど、私のお行儀はよくない。
 音楽的演劇は、ミュージカルである。演劇的音楽が本舞台である。この構図を見て、ニューメタルについて触れずにはいられなかった。ラップをそのままヘヴィ・ミュージックに取り入れたリンプ・ビズキットやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。リズムや曲調などその二つとは違う形でアプローチしたコーン(Korn)。後者に地点のアプローチは該当する。
 何度も言うが、これは演劇的音楽なのである。劇の要素を強く取り入れた音楽なのである。演劇の土俵ではなく、音楽の土俵で、地点「ファッツアーが語られるとするならば、どのように受け取られるにだろうか。私は、演劇においてほどは、話題にならないと考える。音楽には、すでに劇的な要素が取り入れられたものが多くあるからである。叙情的なヴォーカルスタイル、叙情的なプレイはロックミュージックを中心に二〇世紀後半には登場し、現在確固たる地位を獲得している。ミュージシャンたちが、意図的に劇的要素を取り込んでいるわけではない。だが、彼らの演奏スタイルに劇的要素があることは明らかである。感じるままに、アドリブでギターソロをくり出すジミ・ヘンドリックス。アンチ・クライスト・スーパースター、マリリン・マンソン。反資本主義者、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。彼らの魂は劇的といって差し支えない。
 彼らの多くはバイオレンスを持っていたので、必然的に、「上演」中、会場の空気熱くなる。だが、劇的はバイオレンスと直結しないことは言うまでもない。彼らの熱さの原因は、バイオレンスであったが、熱さの普遍的な原因であるわけではない。熱さの原因は、バイオレンスに限られない。だから、いろいろな原因を創り出すことも可能である。同じ温度でも、原因が違えば感じ方は全く違って見える。原因というと語弊があるのならば、媒体と言い換えてみよう。
 空気か、水か。ミュージシャンか、それとも役者か。私が言いたいのは、地点「ファッツアー」はInnovationであるということである。混ぜ込み。調合の仕方が独特であるから、興味をそそる。旨い料理になる。旨いのなら、観客はそれがイタリアンなのかフレンチなのかといったことについて、二の次になる。最後に、このことばを引用しておこう。

   「料理した時と同じ温度では食べない、だから、俺たちはこれから一度、戯れに言うのだが、料理した時とおなじ温度で食べてみよう」

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